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  • 執筆者の写真史朗 江川

雑感:今西錦司は何を考えていたのか

更新日:2023年2月4日

【緒言】

”構造”の進化に興味が湧いたので、今錦を読んでみました。ドメスティックな文献に光るものがあるなら、邦人のアドヴァンテージとしてこれを役立てない手は無いと考えた次第です。はじめに断っておくと、本投稿は科学的な思索には着地しませんでした。


【ひとまず読んでみた印象】

『生物の世界(1941)』では、生物を擬物化しようとする機械論・世界の一部だけを切り取って理解しようとする要素還元主義(ここでは俗流ネオダーウィニズム)へのアンチテーゼとして、ゲーテ・ユキュスクル的自然観に裏打ちされた知的な全体論が展開されていました。援用している仏教思想に弄ばれている感もなくはないですが、無生物-生物-人間・自-他の間のシャープなバウンダリーを崩しにかかる姿勢にはとても納得がいきます。非対称性の破れで生物社会を説明しようという態度にknk先生の源流(?)を感じました。 柴谷(1981)で指摘されているように、後代のダーウィニズムとも整合的ですし、僕のような生態学の門外漢が読む分には科学的にもまだまだ意義のある印象を受けました。


一方で『私の進化論(1970)』では、「同種内の個体間には優劣は無い」「社会が成立していることが重要なので、変化が起こる時は全個体で一斉に変化が起こる。なので淘汰を重視するのはナンセンス」と執拗に繰り返されている印象を受けました。全体論を装った全体主義(⇔個人主義)へと変容しています。ただ、後年の論理的誤謬も41年の時点の知性があれば避けられたように思い、不可解な印象を受けます。

また同書にて、丘浅次郎が自覚的に進化論を誤用し、それを憂国の観点から富国強兵のスローガンとして援用していたことを看破していました。そしてそのことを「思想家としての正しい姿勢」と評していました。


『自然学の提唱(1984)』では、表面的には意地を張って憤慨して見せながらも、「私の説は神話に依拠している」「科学者を廃業している」などの表現があり、言外には後進(特に柴谷)に対して負けを認めているように見えます。(*1)


【考察・批判】

これらから察するに、戦後においては今西自身も、自覚的に進化論を誤用し、憂国の観点からスローガンとして援用していたような印象を受けました。即ち「我々日本国民は連合国民と比して劣ってなどいない」「集団として団結し、誰も取り溢さず、全員で変化に対応して生き延びよう」と、敗戦で傷ついた自国民に対して、言祝ぎ、激励しているかのような印象を受けました(*2)。戦後の彼独自の進化論とその普及は、思想家・インテリとしての憂国的ミッションだったのでしょうか?そう解釈すれば、彼が科学的な整合性・緻密性を省みずに独自の進化論に固執していた謎も氷解するような気がします。


さて、今西の態度は妥当だったのでしょうか?

貧困は暴力を呼び寄せ、暴力は世代を越えて伝播するらしいので、これを防ぐために早急に”精神的な痛み止め”を打つ必要があったことは理解できます。ただ、後知恵での評価にはなりますが、今西が血道を上げるべきだったのは、サイエンスをポルノ化して自国民の現実逃避的マスターベーションを幇助することではなく(依存・皮相的な自己肯定へ繋がる)、自身の気持ちの処理に責任意識を持たせ、それと折り合いをつける方法を一緒に考えること(自立・自己受容に繋がる)だったのではないかとも思います。理想的なことを言えば、経済的・物質的なパワーで自身の気持ちを紛らわせる時代が訪れる前までの間に。結局のところ、現実逃避と他者依存もまた、家庭内および次世代に暴力を呼び込みます。


博士の知性は多少なり公共材の側面があると信じています。科学的な内容以外の思索もまた、研究者育成の副産物として市民に還元されるべきだと思います。このような理由から本投稿を行いました。


 

(*1)

ちなみに、この「表面的には意地を張りながら、若い人間に対して一歩退いた態度を取る」というポーズに古き良き昭和の男という印象を受けます。失敗したときや悪用されたときのダメージが大きいので、現代において実践するのはあまり現実的ではないでしょうが、同性として憧れるところがないかと問われると完全には否定できません。もっとも、これは平成生まれが幻視してしまっているファンタジーかもしれません。


(*2)

余談ですが、話が人に一番刺さる時は、隠されたメタメッセージに触れた時だと思います。例え受け手がそのメタメッセージの受信に無自覚だったり知性が追い付かなかったとしても、心的用意さえ整っていればしっかりと共振します。内田(2002)を読む限りでは、これは映画エイリアンシリーズがゴシックホラーSFの裏で常にフェミニズムを鳴らし続けていたのと、手法としては一緒だと思います。

 

(参考)

- 今西錦司, 2002, 生物の世界ほか (生物の世界(1941), 自然学の提唱(1984)収録)

- 今西錦司, 1970, 私の進化論

- 柴谷篤弘, 1981, 今西進化論批判試論

- ゲーテ, 1982, 自然と象徴 (前田・高橋訳)

- ゲーテ, 2009, ゲーテ形態学論集・動物篇 (木村訳)

- ユクスキュル, クリサート, 2005,生物から見た世界(日高・羽田訳)

- 内田樹, 2002, 女は何を欲望するか?

- ささやななえ, 椎名篤子, 「凍りついた瞳」シリーズ

- エーリッヒフロム, 1991, 愛するということ (鈴木訳)

- 二村ヒトシ, 2014, なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか


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