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執筆者の写真史朗 江川

雑感:進化学者はアレントのような葛藤をしない?

更新日:2022年5月15日

先日、ハンナアレントについての話を聞いた。


彼女は、アイヒマンに対して悪魔崇拝のような人気が生じてしまうのを避ける為に「彼を凡庸な小役人として描こう」という政治的判断をしていたそうだ。つまり、彼女は「アイヒマンの邪悪性を、彼の特殊性に帰すことなく、人間的普遍性で説明しきること」を使命としていたそうだ。 アレントがアイヒマンに押し付けようとしていた「凡庸ゆえに悪行を犯すことになった人間」という人物像は、アイヒマン彼自身が演じようとしていた「当時の社会秩序を守っていただけの人間」ととても相性が良いので、少なくとも状況としては「2人の”共犯“によってアイヒマンの特殊性を隠蔽できる」という用意が整っていたように思う。


僕は一回性の進化史的イベントに対して「なぜ」を問うのがとても好きだ。この「二度と再現しない現象」を科学的に検証するためには、「その生物に特殊なことが起きていたから」というアドホックな説明をしていたら科学者としては負けなので、基本的には「現代でも再現するような普遍的なメカニズム」で説明する方針を取らざるを得ない。


よくよく考えてみれば、僕の進化学者としての状況は、アレントの置かれた状況ととても似ている。研究する上で、僕自身が「進化史復元対象の特殊性を無意識の内に無視してしまう」という可能性を心に留めておく必要があるなと思った。


最後に少し他人を言祝いでおきたい。


一つ目は、古生物学者とパレオアーティストに対して。現生動物だけを研究材料(手がかり)に科学の作法に則って過去を復元しようとすると、どうしてもオッカムの剃刀が効きすぎる。これをひっくり返してくれるのが、すごく”変な”化石を報告してくれる古生物学者だ。また、「最節的な無味乾燥とした絶滅動物像」に想像力を持って脚色を付けてくれるのはパレオアーティストだ。勿論これは良い意味での脚色であり、そして良質な脚色とは畢竟センスの良い生物観に根差しており、このレベルまで一般化すればそれは即ち自然科学者の憧れそのものなような気もする。ということで、実は(アウトリーチ促進以外の部分でも)彼らに負うところはとても大きいと思っている。


もうひとつは、文系の学者、特に政治や倫理に関する学問の学者に対して。上記のように僕ら進化史の科学者は、「普遍的なメカニズムに落とし込んで説明を付ける」という方針を取るにあたっては全く心理的葛藤が生じない。一方で、おそらくアレントは「普遍的なメカニズムに落とし込んで説明を付ける」という作為的な作業に対して大きな葛藤があったのではないかと思う。「研究の方針を決める過程で、真理と正義の間でのダブルバインドが生じ得る」という一部の文系学者の状況に思いを馳せると、僕なんかはもう少し彼らの主張に真摯な関心を持っても良いのかもしれないとも思う。

 

- テツドク!「悪の凡庸さとは何か~『アイヒマン裁判』から考える: 三浦隆宏さん(紹介者), カフェフィロさん(主催)

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